17th
なんて楽しそうなところなんだろう。
一度、京都に住む友人の家に遊びにいったら、一泊はここでしようかな。
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★中国人の無法朝市・大阪府警が10年間放置で抗議殺到
http://news20.2ch.net/test/read.cgi/news/1153743184/
10 名前:総裁[] 投稿日:2006/07/24(月) 21:18:41 ID:zVWtz4Bc0
この大阪府警関係のスレッド、どこの板でも絶対にウイルスコード張られるんだけどなぜ?
隠蔽工作?
194 名前:番組の途中ですが名無しです[] 投稿日:2006/07/25(火) 01:40:48 ID:LG8iWDK90
»10 ウィルスコードはっつけたスレはグーグルキャッシュに残らないからね。いい証拠隠滅でしょ。
数年すれば大体の人は忘れてくれるし。(大阪以外の出来事だったらね)
150 名前:水先案名無い人[sage] 投稿日:2006/07/25(火) 04:28:31 ID:a7QhSNvn0
ウィルスコードってスレ見てる人への嫌がらせだと思ってたけど
こういう効果を狙っているのか・・・豆知識、豆知識
矢部教授が提唱するのは、「マグネシウム循環社会」というビジョンです。この研究は、海水からマグネシウム化合物を取りだし、太陽光励起レーザーで金属マグネシウムに製錬。金属マグネシウムを、自動車用の金属燃料電池や発電所の燃料として利用するという壮大なものです。生成される酸化マグネシウムは太陽光励起レーザーで再度金属マグネシウムに戻されます。
私がこの研究に興味を持った理由の1つは、『弾言』(Amazon / iPhone版)での小飼弾氏の発言にあります。
“では、安価で使い放題の「十分なエネルギー」があったとしたら、いったい何が起こるのでしょうか? 現在ではコストの関係で不可能な製錬技術を使えることになります。そのへんに転がっている石ころが資源に化けてしまうのです。”
binWord/blog - 石油に代わる新エネルギーは何か?『マグネシウム文明論』PHP新書より発売です #mgciv
ブログ本一緒に書いた山路さんのエネルギー本。IT系に関心ある人がエネルギーのことも関心ある、ってのは、googleとかもそうだけど、オープンとかフリーってキーワードつながりでなんかしら必然性があるんだろうな。
アジア人:インド→タイ…南方ルート有力 遺伝情報解析 アジアでの移住の流れ アジアの人類は主にインドからタイ付近を経て日本や韓国、中国などの東アジアなど各地へ広がったとみられることが、各地の民族集団の遺伝情報の解析で分かった。アジア10カ国の研究者90人以上が参加し、アジア全域を対象にした初の大規模な分析で、遺伝子上の違いが言語や居住地の分布とほぼ一致することも確かめられた。11日付の米科学誌「サイエンス」に発表した。 研究チームは今回、祖父母の代まで同じ言語を使うアジア各地の73集団計約1900人の血液を採取するなどして遺伝情報を分析した。一般に、元になった集団ほど遺伝子の多様性が高く、分岐して新しい場所に移住した集団ほど多様性が低くなる。 現代人は十数万年前にアフリカで誕生し、世界中に広がったとされる。今回の分析から、アジアの人々の大部分の共通祖先は、まずインド半島に到達。東南アジアのタイ付近に移住後、東アジアや東南アジアの他地域など、各地に分散したと推定されるという。日本には中国、韓国を経て移住したとみられる。 東アジアについては、アフリカから中央アジアを経る北方ルートで移住してきたという説もあったが、今回の研究結果で南方ルートで移住した可能性が高まった。研究チームの徳永勝士・東京大教授は「アジア系集団の大きな移住の流れが分かった。今後詳細な分析を進めれば、移住の時期についても分かってくるだろう」と話している。 (via アジア人:インド→タイ…南方ルート有力 遺伝情報解析 - 毎日jp(毎日新聞)
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With a sad heart it befalls us to tell you that after two weeks of serious illness, our most beloved teacher, The Venerable Khetsun Sangpo Rinpoche declared his intent to enter final meditation on Saturday, December 5, 2009, at approximately 6:00pm Standard Nepal Time. Rinpoche stayed 24 hours in deep meditation, then left the world of samsara on December 6, 2009. According to the Tibetan calendar, he was 90 years old.
Khetsun Sangpo Rinpoche was one of the last living, most senior lamas who trained in Tibet. A master of the Nyingma lineage, the Venerable Khetsun Sangpo Rinpoche was trained in all four lineages of Tibetan Buddhism – Nyingma, Geluk, Sakya and Kagyu. Rinpoche was a Dzochen master and most eminent Nyingma historian and scholar. Kyabje Dudjom Rinpoche, Jetsun Shuksep Rinpoche, Kangyur Rinpoche, Drukpa Yangzin Rinpoche, Dzogchen Lama Gonpo Rinpoche and Dilgo Khyentse Rinpoche were Rinpoche’s root lamas. Rinpoche’s dharma heir is Kangyur Tulku Jigme Rinpoche.
Rinpoche was born in 1920 in Yak-de, the Yamdok area of Tibet between the central and western provinces. Rinpoche began his spiritual life as a Tibetan Buddhist monk and later, as his father before him and in line with the Nyingma tradition, he became a ngakpa — a lay monk. An ardent practitioner, Rinpoche’s ability to stop hail from destroying crops was well documented in Tibet. In 1959, at the insistence of his lama Drukpa Yangzin Rinpoche, Khetsun Sangpo Rinpoche fled communist rule leaving behind his family and carrying with him only one pecha as he crossed the high Himalayas. Rinpoche moved to India to be in the service of His Holiness the Dalai Lama. In 1960, Rinpoche was asked by Kyabje Dudjom Rinpoche and His Holiness to teach the holy Dharma in Japan. Rinpoche completed this work in 1970, returned to India, and at the behest of Kyabje Dudjom Rinpoche, Rinpoche founded Nyingmapa Wishfulfilling Center for Study and Practice (NWC) – the first Dudjom institute outside of Tibet. Later Rinpoche moved NWC to Nepal, where the modest monastery and shedra – monastic school and college — is now located outside of Kathmandu in Sundarijal.
Khetsun Sangpo Rinpoche wrote a magnum opus, thirteen-volume Biographical Dictionary of Tibet and Tibetan Buddhism*. His Tantic Practice in Nyingma, translated into Japanese and English, has been used by thousands of students throughout the world to guide them in their foundational practices. Rinpoche expanded these teachings with The Nyingma View of the Great Completeness — Fundamental Mind. Rinpoche gave an account of his own spiritual journey and attainments in Autobiography of Khetsun Sangpo: Memoirs of a Nyingmapa Lama from the Yamdok Area of Tibet*. In addition, Rinpoche recently published an authoritative history of The Three Great Stupas: Swayambunath, Boudhanath and Namo Buddha*. (*Not yet translated into English.)
Rinpoche will be most remembered for his gentle kindness, wisdom and compassion, his warm smile, his absolute knowing. He was a great teacher, a loving master. All who knew him are blessed.
Rinpoche’s last instructions to his students were thus: “Work hard for the sake of the Dharma. For other than that, work is needless, useless and meaningless.”
In keeping with this, to the very end Rinpoche continued to do his daily practices. He was an inspiration. As Rinpoche’s students we should be proud to have had such an outstanding teacher. In his loving memory we should strive always to be good students and keep our samaya.
Of his passing, Kangyur Tulku Jigme Rinpoche reminds Rinpoche’s students: “If you practice well, Rinpoche will always be in your heart and mind.”
Pujas will be held daily at NWC through the 49th day. We ask for your continued prayers and that all Rinpoche’s wishes be fulfilled.
青山繁晴
「はい。だから普通、恵まれた家庭に育ったからずさんでしたなんて言ったらですよ、たとえば前の、元の総理の安倍晋三さんはね、自分のブログで、これ麻生さんが言ったら即死なのに、何で麻生さんには甘いんだと言ってね、不満だけ述べておられるんですが」
村西利恵
「(青山さんの言葉を訂正)鳩山さんに甘い…」
山本浩之
「(同上)鳩山さんには甘いんだと」
青山繁晴
「ああ、鳩山さんには甘いんだと、不満だけ述べておられるんですが、これは実にしたたかに、私は貴種ですってこと言ってるわけですよ。貴種で、だから流離っていうのは、たとえば自民党の田中派にいたのが、さきがけ行ったり、いろいろ苦労して、小沢さんのもとでも苦労して、今もまた苦労なさってる。そういうのは認めてくれたら、実は世論は自分に対して辞めろまでは行かないと、小沢さんも首のすげ替えまではできないってことを、僕はきちんと根深いところで、さっきの演出家も含めて計算なさってるのが今の姿だと思うんですよ。そして僕はあの、鳩山さんの人間像っていうのは、この戦後の64年間が作ったものだと申しましたが、この貴種流離譚まで考えると、私たちの文化の相当深いところまで食い込んでる人だってこと言えると思います。あの、もう時間ありませんが、ぶらさがり取材を受ける時にね、高い背をこうやって縮めて(前屈みになる)、こういうふうに姿勢されてるでしょ。ね」
山本浩之
「前屈みになってますよね」
青山繁晴
「ええ、これも僕は演出家がいらっしゃるというふうに聞いてます」
一同
「へえーーー」
青山繁晴
「あの、非常に計算されて、その、貴種というのはですね、あの、あくまでも偉そうにしてる貴人じゃダメなんですよ。弱々しくなさってる、ね、謙虚な弱々しい方でいらっしゃると。で、後ろに強い人がいて守ってくれる、そういうのを見事に演じておられるんじゃないかと思います。あの、これからの判断の材料のひとつにしていただきたいと思います」
沖縄、地域住民の絆を築いた共同店が百周年
比嘉康文
2006/02/15
日常品や農業資材の販売、生産物の集荷、地域貨幣の発行・・・地域経済を支えてきたばかりでなく、住民の共同体意識を高めてきた沖縄の「共同店」。今年、百周年を迎える。
今年は沖縄に共同店が出来て百年になる。その発祥地の国頭村(くにがみそん)奥区(以下略して:「奥」)では3月17日に「共同店サミット」を開催し、共同店が地域に貢献した業績をはじめ、現在かかえている問題などについて話し合う。
共同店は集落で経営し、地域住民の日常品や農業資材などを販売し、また地域の生産物を集荷し、都市地区で売る購買事業、施設の共同利用、金の貸し付けなどがある。中には地域貨幣に相当する「切符」を発行したところもあり、地域経済を支えてきた。構成員は幼児を含む集落の全人口であり、集落の存立と運命を共にする存在である、という特徴がある。
共同店は道路事情が悪く、町と離れた僻地などで発達してきた。山原という名称で、その辺境ぶりが表現されている国頭郡に多い。地域経済を支えてきたばかりでなく、住民に集落の共同体の一員としての意識を高めてきた。共同店は1975年ごろには沖縄本島の北部に位置する国頭郡に86、中部の中頭郡に7、南部の島尻郡に10、宮古郡に3、八重山郡に10の合計116店があった。しかし、現在は個人に経営を譲ったり、廃業に追い込まれたりして大幅に減少している。
現在、各集落に残っている共同店は、経営的には危機的な状況にある。復帰後、道路が整備されたことや自家用車の普及で、町や大型店に出かける住民が増え、共同店の売上が減少している。その一方で、集落には年と共に老人世帯が増え、遠くに買い物に行けないお年寄りたちは日用品の購入を共同店に頼らざるを得ない、という現実がある。こうした共同店が直面している問題を各地の共同店経営者が一堂に集まって話し合い、その解決策をさぐるのがサミットの狙い。
その地域の特色がよく反映されているのが共同店である。奥の共同店は1905(明治38)年に沖縄で初めて設立された。お茶や林産物などを生産者から集め、都市地区で販売。その帰途、住民が必要とする日常雑貨や食料品、生産資材などを仕入れ、共同店て販売してきた。
一般に共同店の利益は、経営などの必要経費を差し引き、その純利益を共同店の出資者に年に1回配当するケース。また集落の運営資金に組み入れたり、集落内の各種行事に寄付するなど様々のケースがある。その根底には全住民のために活用する、という考えがある。
奥共同店の事業をみると、かつて林業が盛んなころ、県有林や国有林の払い下げを共同店が取り扱っている。共同店は払い下げた山林を区分して住民に入札させ、その林産物は共同店が一括して集荷し、販売する。この方式の場合、共同店に損失が生じることがなく、利益が確保される。
奥共同店が取り扱う木炭俵には、一俵づつに生産者の住所、名前が書かれた木札が結ばれ、木炭の品質を生産者が保証していた。戦後もその方法がとられ、奥の木炭は他の地域のものより3割も高く売れた。他の地域の木炭俵にはクズものが混入している場合もあるが、奥の木炭俵には品質の悪いのは混入していない。戦前から生産者責任が確立されていたことになる。
奥は、戦前からお茶の産地として有名。お茶の製造工場があり、現在「おくミドリ」の商品名で販売されている。本土より2カ月も早く茶摘みが行われ、その一番茶は静岡に出荷されている。
戦前、与論島との郵便船が往来していたが、戦後はサンフランシスコ平和条約で本土と切り離されたため、郵便船の往来はない。集落入口にモダンな郵便局がある。2004年度から中学校が国頭中学校に統合され、小学校だけが残っている。全児童数は13人、複式授業で3クラス。
奥の集落も例外ではなく、若者が少なく老人所帯が増えている。民宿やバンガロー方式の宿泊施設もあり、のんびりと自然の中で過ごしたい都会人から人気だ、という。
奥共同店は戦前、独自の「切符」を発行し、集落内で流通させていた。「切符」というのは貨幣にかわるもの。林産物など集落の生産物の出荷量が増加し、それに見合うだけの現金が共同店にないため、苦肉の策として「切符」が発行された。その「切符」で買い物ができ、住民の間で貨幣と同じような使い方がされていた。
戦前、中部にあった嘉手納(かでな)農林学校に合格した学生は、駐在所や郵便局の職員に頼んで、「切符」と貨幣を交換してもらっていた、という。戦後も続いた制度で、独特の貨幣経済が成立していた。このやり方は国頭村内の別の共同店でも一時的に行われている。
隣りの集落・楚洲(そす)の共同店では、お金を貸す金融業も共同店が行っていた。ドル時代の事例をみると、50ドルまでは共同店に申し出れば、店員が記録して容易く借りることができた。それ以上百ドルまでは共同店主任の許可が必要。また、家を新築など大金が必要の場合には、集落の幹部の審議をえて貸付けが行われている。小さな集落内で肩を寄せ合うように生活しており、金を借りる人の勤勉さ、誠実さなどがよく分かっているので、無理な課し付けはなかった、という。また、大金を必要とする者は日ごろから計画し、それなりの行動を展開してきた、という。そこが共同店の特色であり、相互の絆を強めることになった。
道路事情がもっとも悪く、『陸の孤島』と呼ばれていた楚洲は共同店が、独自の船を持ち、沖縄本島の中部の地域と交易を長年続けている。
各集落の共同店は、それぞれの発生の歴史、経営に地域色がにじみ出ており、一律に論じることは難しい。集落の経済活動を支えてきた共同店は、地域住民の共同体意識も形勢してきた。だが、時代の流れの中で、大きな曲がり角に直面している。それだけに今回のサミットが注目されている。
(注1)共同店は共同売店ともいう。集落の住民たちが出資、また集落の共有地などを売った資金などで設立されている。
(注2)奥の場合には、共同店を中心にした経済活動が盛んであり、また共同意識が強固な社会なので「共産部落」と表現された新聞や雑誌の記事が散見されるが、住民は保守支持者がほとんどである。
いまアホほど抱えているドルを円に換えることなどできないし、逆日銀砲も見越して返済確実で金利も良く、この情勢下では最良の資金の貸し先であるIMFへの10兆円拠出をNOという理屈が分からない。
馬鹿が割り算で国民負担10万円でそんなことに使うぐらいなら云々と煽られて踊っている連中は、所詮その程度の奴ということで。このあと変な報道があったり、妙な知識人風テレビ芸人がIMF拠出批判とかやったら、もろにその組織や人物の属性が分かるんだろうな。
定点ウォッチしておきたいネタが増えたわ。